この記事では、風刺画「士族の商法」を解説しています。
風刺画「士族の商法」とは?
この風刺画は、明治維新直後に士族が商売に手を出して失敗するさまを表したものです。
明治元年(1868)の明治維新により武家社会は終りを遂げ、多くの武士は「士族」となりました。
もともと商売とは無縁であった士族はさまざまな商売に手を出すものの失敗する人が多く、生活に困窮するようになります。
風刺画「士族の商法」の作者は?
風刺画「士族の商法」の作者は歌川芳虎(生没年不詳)です。
歌川は幕末から文明開化期にかけて活躍した絵師の一人で、武者絵や、美人画、開化絵といった様々なジャンルで幅広く活動しました。
「士族の商法」は、1877年に発表された画帳『錦絵』に掲載されたものです。
当時の時代背景は?
明治維新後に行われた身分制度改革の年表はこちらです。
年 | 主な出来事 |
---|---|
1869 | ・版籍奉還 ・公家・武士を華族・士族とし、それぞれ家禄を定める |
1870 | ・平民に苗字の使用を許可 |
1871 | ・戸籍法を公布(華族・士族・平民の3族籍とし、1872年に施行) ・散髪脱刀令(断髪・廃刀の自由を許可) ・華族・士族・平民相互の結婚を許可 ・解放令(賤称廃止令) ・華族・士族・卒に職業の自由を許可 |
1872 | ・壬申戸籍(初の全国統一戸籍を編成) ・人身売買を禁止 |
1873 | ・秩禄奉還の法を制定(奉還希望者に現金と秩禄公債証書を支給) |
1874 | ・秩禄公債証書発行条例を制定 |
1875 | ・東北3県の士族を募り、屯田兵とする ・秩禄公債証書発行条例を廃止(士族授産の失敗) |
1876 | ・廃刀令 ・金録公債証書発行条例を制定(秩禄処分) |
これほどの大改革が10年足らずの間に実行されたのは驚くべきことですが、当時の人々はあまりの改革の速さに付いていけなかったのではないでしょうか。
特に士族は今まで家禄による米や貨幣の支給に頼っていたため、平民のような農業や飲食店経営といった仕事とは無縁でした(一部の武士は寺子屋や内職といった副業をしていましたが)。
そんな士族たちは、官吏・教員・新聞記者・農家などになって新しい生活を始めましたが、未経験の状態で急に商売を始めてもうまくいくはずもなく、大半の士族は商売に失敗して生活に困窮するようになります。
こうして士族たちの間には政府に不満を抱くものが多くなり、反乱を起こしたり、自由民権運動に走る者も現れ始めました。
これに対し、政府は士族の救済にあたり、未開拓地の開墾・移住の保護奨励、官有地の廉価払下げ、資金の貸付など、いわゆる「士族授産」に力を注いだのです。
風刺画「士族の商法」は、当時の商売に失敗続きだった士族を揶揄して作られたものです。
この風刺画にはお菓子屋さんが描かれており、商品札に書かれている商品が士族を揶揄するものになっています。
商品を一つずつ紹介していきます。
風刺画「士族の商法」に載っている食べ物を解説
日々出ぱん 旅費鳥せんべい
風刺画の一番右に書かれているのは「日々出ぱん 旅費鳥せんべい」。
商品の説明欄には「御遠国出張の方より多分のお誂へあり」とあります。
ここで言う「御遠国」というのは九州のこと。
士族の中に、役人(官僚)として働き始めた人がいました。
役人が九州へ出張したものの、今まで江戸から出たことのない士族は旅に慣れておらず、莫大な旅費がかかってしまいます。
そのような滑稽な士族の様子を皮肉っている、というわけですね。
毎日新製 瓦斯提邏(かすていら)
右から二番目は「毎日新製 瓦斯提邏(かすていら)」。
商品の説明欄には、「最早二三千西国へつみおくり候」と書かれています。
2,000~3,000人の士族が各地で巡査として登用され、西国、つまり西南戦争(※)に動員されたことを指しています。
なお、「かすていら」というのは「カステラ」のことで、江戸時代に西洋から伝えられた南蛮菓子の一つです。
※1877年に起きた日本国内における最後の内戦。明治維新の立役者である西郷隆盛が挙兵した戦いで、武士の世に終止符を打った戦いとも言われています。
新製買徳 有平党(あるへいとう)
右から三番目に書かれているのは「新製買徳 有平党(あるへいとう)」です。
商品の説明欄には「やうやく一万計り出来直打なく大負〱」とあります。
「有平党」は西南戦争における西郷軍のことを指しているとされており、西郷軍が「大負け」になるのではないかと世間で言われていることを指しています。
ちなみに、あるへいとう(有平糖)とは南蛮菓子の一つで、カステラや金平糖と同様にポルトガルから伝来したお菓子です。
お芋の頑固り 不平おこし
次は「お芋の頑固り 不平おこし」。
商品の説明欄には「消化あしく崩易し」とあります。
これだけだと何を言っているかよくわからないのですが、実はこの風刺画の一番右に描かれている女性の台詞を読むと、こう書かれているのです。
”このおこしハ一ト月や二タ月ハかちますかへ”
「一ト月」は1ヶ月、「二タ月」は2か月、という意味です。
また、「芋」というのは「薩摩」を連想させます。
つまり、1~2か月くらいなら(西南戦争で)西郷軍が勝つかも、ということを表現しているのです。
肥後の城こめにて製す 熊鹿戦べい
次は「肥後の城こめにて製す 熊鹿戦べい」。
商品の説明欄には「根団は少しもお負不申候」と書かれています。
「熊鹿」というのは熊本対鹿児島の戦い、つまり西郷軍による熊本城攻めを意味しています。
「根団は少しもお負不申候」というのは、熊本側が籠城に耐えている様子を表しています。
三菱形西洋風 蒸洋艦(むしようかん)
次は「三菱形西洋風 蒸洋艦(むしようかん)」。
商品の説明欄には「売切の日多し」と書かれています。
西南戦争において人員や物資を輸送していた三菱製の蒸気船が不足している様子を指しています。
抜刀がけ 困弊盗(こんぺいとう)
最後に紹介するのは「抜刀がけ 困弊盗(こんぺいとう)」です。
商品の説明欄には「世間が騒騒敷につきて出来申候味ひ良しからず」と書かれています。
西南戦争に乗じて、刀剣を所持した強盗が横行したことを表しています。
「士族の商法」は士族を揶揄した風刺画ではない?
以上のように、風刺画「士族の商法」に描かれている商品は西南戦争に関連するものが多く、商売慣れしていない士族を揶揄するものもありますが、多くは西南戦争の戦況を説明するものになっています。
この風刺画は多くの教科書に載っており、どの教科書を見ても「商売に失敗する士族を風刺したもの」と解説されていますが、実際のところは、風刺と同時に西南戦争(世間の最も大きな関心事であった)の戦況解説を絡めた絵画であったことがわかりました(※)。
※この風刺画の意味については諸説あります。
「士族の商法」の成功例はあるのか?
失敗しがちな士族の商法ですが、成功した例はあるのでしょうか?
ここでは2つ成功例を紹介します。
成功した士族の商法①:北海道の開拓事業
明治維新前後の日本では外国の圧力が大きくなっており、明治政府は外国勢力に対抗するため「富国強兵」の政策を掲げ軍事力を強めていきました。
当時、中国地方や九州ではすでに長州藩や薩摩藩など、幕末の時代から軍事的な基盤が出来上がっていましたが、北海道は「蝦夷地」と呼ばれ、未開の地でした。
そこで明治政府はロシアの脅威に備えるため、北海道の開拓を始めました。
1874年に「屯田兵」と呼ばれる開拓民が士族から募集され、965名の士族が選ばれて北海道に派遣されました。
成功した士族の商法②:静岡県牧之原の製茶業
士族の中には、「士族授産」という政策によって貸付けられた資金を使って起業した士族もいました。
主な業種としては不動産業や製糸業、発電事業などですが、数少ない成功例として挙げられるのが静岡県の牧之原で始められた製茶業です。
明治維新後、徳川慶喜に仕えた中條景昭をリーダーとした士族数百名は慶喜が静岡に隠居するのに伴い、徳川慶喜とともに静岡に移住します。
もともとは「精鋭隊」として慶喜の護衛をすることが彼らの目的でしたが、維新によって精鋭隊は解散することになったため、数百名の士族は職を失ってしまったのです。
中條景昭たちは茶農業者に転職することを決意し、牧之原を開拓し茶畑を作り製茶業に従事しました。
当時の牧之原は未開拓のため荒れ地で、水を引くのも大変でしたが、長い苦難を乗り越え、見事な茶畑を作りお茶の製造に成功しています。
牧之原は現在でも日本で屈指のお茶の産地として知られています。
コメント