この記事では、風刺画「会議は踊る、されど進まず」を解説しています。
ウィーン会議を描いた風刺画「会議は踊る、されど進まず」とは?
この風刺画の正式なタイトルは「会議(LE CONGRES)」といいます。
ウィーン会議がなかなか結論を出せないにもかかわらず舞踏会を連日開催していたことから「会議は踊る、されど進まず」という有名なフレーズが生まれ、このフレーズが風刺画のタイトルかのように扱われることが多いです。
この風刺画の作者はフランスの銅版画家Forceval(フォルスヴァル:生没年不詳)で、1814年~1815年にかけて行われたウィーン会議を風刺したものです。
この風刺画が作成された年は不明ですが、恐らくはウィーン会議が行われた直後(1815年~1820年頃)に描かれたものと思われます。
ウィーン会議はフランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパにおける秩序の再建と領土分割を目的とし、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議です。
ウィーン会議の参加者と時代背景
ウィーン会議の主な参加者は以下の通りです。
ロシア:アレクサンドル1世
プロイセン:フリードリヒ=ヴィルヘルム3世
イギリス:カースルレー外相
オーストリア:フランツ1世、メッテルニヒ外相(議長)
フランス:タレーラン外相
当時のヨーロッパはナポレオン戦争(1803年~1815年)によって多くの国がフランスの領土となっていましたが、ナポレオンの失脚とともに、フランス領土をどこの国に戻すかがウィーン会議における議論の焦点になっていました。
フランス革命当時の1792年より前の状態に戻す“正統主義“を原則とするところまでは各国で合意が取れたのですが、細かい領土分割の話になると各国の利害が衝突し、数か月を経ても議論は進みませんでした。
会議の議長であるオーストリアのメッテルニヒは会議をまとめるために苦心し、ウィーンに集まった各国代表のために舞踏会を連日開催し、機が熟するのを待ったと言われています。
この様子を指して「会議は踊る、されど進まず」という風刺が生まれたのです。
結局、1815年3月にナポレオンが流刑されていたエルバ島を脱出したとの報が入ると、危機感を抱いた各国の間で妥協が成立し、1815年6月にウィーン議定書が締結され、ウィーン会議は終了しました。
このウィーン議定書により出現したヨーロッパにおける国際秩序を「ウィーン体制」と呼びます。
その後、七月革命や二月革命といった革命運動がヨーロッパ中に広がることでウィーン体制は崩壊していくのですが、その間約30年ほどは平和がもたらされました。
風刺画「会議は踊る、されど進まず」に描かれているのは誰?
風刺画「会議は踊る、されど進まず」には7人の男が描かれています。
左から一人ずつ解説します。
- 壁にもたれて議論を冷静に見つめる「フランス外相タレーラン」
→フランスは革命以前からの勢力を維持しつつ、国際秩序の下に復帰し、列強の対立関係を利用して敗戦の被害を最小限に抑えたい。議論を冷静に見つめるタレーランを描写することでフランスの状況を示している。 - 控えめに踊る「イギリス外相カースルレー」
→イギリス的にはフランスが過度に弱体化することも、オーストリア、ロシア、プロイセンが拡大することも望ましくない。各勢力が均衡している状態が最善。そのため積極的に踊ることはしない。 - 激しく踊る3人「オーストリア皇帝フランツ1世」
- 激しく踊る3人「ロシア皇帝アレクサンドル1世」
- 激しく踊る3人「プロイセン王ヴィルヘルム3世」
→3者とも戦勝国として広大な領土を獲得した。それぞれが自国の利益を最大化しつつ、勢力間のバランスを維持しようと試み、踊りながらも牽制し合っている様子を描いている。 - 王冠を押さえて困り顔の「ザクセン王アウグスト1世」
→ザクセン王国はかつてライン同盟(ナポレオン1世の圧力により成立した国家連合)に所属していたが、寝返った。ナポレオン戦争の戦勝国であるものの、ウィーン会議で領土を取られて損をしたことを表現している。 - 右端でジャンプする「ジェノヴァ共和国の寓意(擬人化したもの)」
→ジェノヴァ共和国はナポレオンに滅ぼされ、一時復活が宣言されたものの結局はウィーン会議でサルディーニャ王国への併合が決まった。大いに振り回された様子をジャンプすることで表現している。
まとめ
「会議は踊る、されど進まず」という言葉は現在でも使われることがありますね。
目的もなくダラダラと進み、結論が出ないままの会議に出席し、イライラしたことのある方もいるかもしれません。
そんな時は200年前にも同じように進まない会議で悩んだ議長メッテルニヒに思いを馳せてみると、イライラが少しは収まるかもしれませんよ。
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