この記事では、日露戦争を描いた風刺画を解説します。
日露戦争を描いた風刺画①:「火中の栗」
一つ目に紹介する風刺画は「火中の栗」と呼ばれているものです。
右から2人目の男(イギリス)が中央の男(日本)に指差しながら「あのロシア人が焼いている栗(韓国)を取ってこい」とそそのかしています。
右端の男(アメリカ)は何も言わずその様子をうかがっています。
この風刺画は1903年に日本で発行された「新詳日本史」にて紹介されたもので、作者はオランダ人の画家ヨハン・ブラーケンシーク(1858 – 1940)です。
日露戦争当時、日本の国力はロシアより劣っており、世界中のどの国も日本がロシアに勝利するとは思っていませんでした。
これから紹介するどの風刺画でも、ロシア人が屈強で巨大に描かれているのに対し、日本人が小さく描かれているのは当時の国力の差を表しているのです。
何とかロシアに勝ちたい日本は1902年、イギリスと日英同盟を結びます。
イギリスは当時の帝国主義の代表であり、アジアで勢力を伸ばしつつあるロシアを抑え込むために日本と組むことにしたのです。
日英同盟によれば、日本がロシアと戦争になった場合、イギリスは直接戦闘には参加しないものの、第三国がロシアに加担することを防ぐとともに、経済的・情報的に日本を支援してくれることになっていました。
また、アメリカも満州をめぐりロシアと利害関係があったため、日本に対しては友好的でした。
大国ロシアと戦う再に、イギリスとアメリカが背後にいてくれるのは日本にとって心強いものでした。
その一方、この風刺画に描かれているように、イギリスとアメリカに取ってみれば日本に火中の栗を拾わせ、自分たちも利益を得ようという魂胆も見えます。
当時の帝国主義の状況を描いた有名な風刺画の一つです。
日露戦争を描いた風刺画②:ビゴーによる絵画 その1
次に紹介する風刺画はフランスのビゴーが描いたものです。
最初に紹介したものと構図が似ていますが、強大なロシアに対してへっぴり腰で対峙する日本と、その肩を押しているイギリス、離れて静観するアメリカを描いています。
やはり当時の西欧から見れば、日本は所詮ちっぽけな東アジアの一国でしかなく、そんな日本が強大なロシアに勝つことは難しいと考えていたことがわかります。
→ビゴーの生涯と風刺画については別記事で詳しく解説しています。
日露戦争を描いた風刺画③:ビゴーによる絵画 その2
こちらも同じくビゴーが日露戦争を描いた風刺画です。
巨大な牛として描かれているロシアに対し、日本は生身で応戦しようとしています。
この風刺画のタイトルは「You take him by the horns and I’ll catch him by the tail(君が角を引っ張れば、私が尻尾を捕まえるよ)」というもので、漁夫の利を狙うイギリスを表しています。
日露戦争を描いた風刺画④:ロシアをタコに見立てた風刺画
続いて紹介するこちらの風刺画は、日露戦争の開戦直後(1904年)に描かれたもので、作者は慶應義塾大学の学生であった大原喜三郎です。
当時のロシアは不凍港(年間を通して凍結しない港)を獲得するために「南下政策」を進めていました。
ロシアの南下政策はバルカン半島、中央アジア、中国及び極東の3方面において行われており、この風刺画はそれらの方向に足を伸ばして侵攻しようとするロシアの様子を表現しています。
日露戦争を描いた風刺画⑤:ボクシングに例えた風刺画
こちらも日露戦争の開戦後(1904年)に描かれた風刺画です。
作者はアメリカ人の漫画家ボブ・サッターフィールドで、この作品はタコマ・タイムズ(アメリカのワシントン州で発行されていた新聞)に掲載されました。
日露戦争をボクシングに例えていますが、ロシア(大きな熊)は流血して包帯だらけになっており、日本が優勢であることを表現しています。
日露戦争を描いた風刺画⑥:戦争終結を描いた風刺画
最後に紹介するのは、日露戦争の終結を描いた風刺画です。
明治天皇とニコライ二世の間を取り持っているのはアメリカのルーズベルト大統領で、「もう十分だ!」と言っています。
無傷の日本に対してロシアは包帯で巻かれており、日本が圧勝したことを表現しています。
しかし、実際のところは日本もギリギリの状況でした。
日本陸軍はロシアの軍事基地である旅順を激しい攻防戦の末に陥落させ、さらに奉天の会戦で勝利を収めました。
また、海軍も1905年5月の日本海海戦で東郷平八郎の指揮する連合艦隊が、ヨーロッパから回航してきたロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、勝利を収めます。
一方、兵器や弾薬、兵員の補充が困難になっており、戦争継続能力はほとんどなくなりかけていました。
そこで、日本政府はアメリカ大統領に和平の仲介を依頼したのです。
アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介によって日露講和会議が開催され、ポーツマス条約が調印されますが、日本が賠償金を得られないなど大きな被害を出しながら満足のいく内容でなかったため、国民は激しい不満を抱く結果となりました。
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