成金を描いた風刺画「どうだ明るくなったろう」のモデルは誰?時代背景とともに解説します。

成金_風刺画

この記事では、風刺画「成金栄華時代」の意味やモデルになった人について解説します。

目次

風刺画「成金栄華時代」とは?

成金_風刺画
成金栄華時代

こちらの風刺画を見たことのある方は多いのではないでしょうか。

場面は夜の料亭。

お客さんが帰るときに灯りが消えてしまったのか、女中さんが困っています。

女中さん「暗くてお靴が分からないわ。

紳士(手に持っている100円札を燃やして)「どうだ明るくなったろう。

成金が湯水のようにお金を使っている様子を描いたものです。

風刺画「成金栄華時代」の作者は?

この風刺画に登場する紳士のインパクトがあまりにも大きいため、この風刺画のことを「どうだ明るくなったろうの絵」「成金おじさん」などと呼ぶ人もいるようですが、この風刺画の正式なタイトルは「成金栄華時代」です。

作者は香川県出身の漫画家・画家である和田邦坊氏(1899 – 1992)で、「成金栄華時代」は『現代漫画大観第三編 明治大正史』(1928年)にはじめて掲載されました。

当時の時代背景は?

この風刺画が描かれた時代は1910年代~1920年代です。

当時の日本は1914年に発生した第一次世界大戦の影響により、空前の好景気となりました。

なぜ第一次世界大戦によって日本が好景気になったかと言うと、当時のイギリスやロシア帝国といった日本の同盟国や友好国が、不足する軍需品を日本から供給したからです。

特に鉱山・造船・商社の3業種は花形産業として盛り上がり、空前の好景気によってにわか成金が続出しました。

風刺画「成金栄華時代」に描かれた紳士のモデルは誰?

この風刺画の中で100円札を燃やしている人は、実業家の山本唯三郎(やまもと たださぶろう、1873 – 1927)です。

山本はもともと貧しい家で生まれましたが、勉学に熱心であり、牛乳配達や豆腐屋で働きながら学問をしていました。

札幌農学校を卒業後、北海道の石狩平野で開拓事業を手掛け、大地主となって成功を収めます

山本唯三郎は世界情勢の変化に対応できるビジネスパーソンだった

日清戦争後の国際情勢の中で、中国との貿易が盛んになるだろうと予測した山本は、貿易会社「松昌洋行」の社長となり、材木や石炭の貿易で大きな利益を上げます

その後、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、船舶需要の急増を見越して船舶輸送業を強化します。

購入した20隻以上の船を欧州航路などに投入し、巨万の富を築きました

このように、山本は船舶事業によって成功を収めたため、「船成金」と呼ばれていたそうです。

風刺画を見ると山本は小太りのおじいさんとして描かれており、失礼ながらあまり仕事ができそうな感じには見えないのですが、実際はかなりの切れ者であったことがわかります。

日清戦争や第一次世界大戦といった世界情勢の大きな変化に対し、ビジネスチャンスがどこにあるかを探り当てる能力に長けていたビジネスパーソンと言えるでしょう。

山本唯三郎は派手な遊びで有名だった

山本の最盛期の資産は約4千万円(現在の価値で約1,200億円)とも言われており、そのお金の使い方も型破りなものでした。

1917年には朝鮮半島に渡り、虎狩りをしています(現在は絶滅していますが、当時の朝鮮半島にはアムールトラが生息していました)。

風刺画「成金栄華時代」に描かれる

山本が函館の料亭でひとしきり遊んだ後、玄関で履物を履こうとしたところ暗くて良く見えないため、懐から百円札(当時の最高額紙幣)の束を取り出し火をつけた、という逸話があります。

この逸話を聞いた作者の和田邦坊が、同じ状況を風刺画にして成金を皮肉った、というわけですね。

風刺画を見ると1枚の100円札に火を付けているように見えますが、実際は100円札の束に火を付けていたとのことです。

当時、公務員の初任給が70円だったので、100円札の価値は現在の約30万円でしょうか。

1束が100枚だとすると、足元を照らすためだけに3,000万円分のお札に火を付けていたことになります。

これだけ湯水のようにお金を使えば、世間から疎まれてしまったのも仕方ないのかもしれません。

ちなみにその後山本がどうなったかと言うと、第一次世界大戦終了後の不況(戦後恐慌)の波が直撃し、山本の経営する会社の経営は行き詰りました。

結局ほとんどの財産を失い、吉祥寺にある自宅でわびしい生活を送ったと言われています。

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